- ホーム
- 馬産地いわての歴史と岩手競馬
- 岩手の競馬前史(1)
岩手の競馬前史(1)
南部駒の優秀性 2010年1月22日(金)
現在、日本で走っている競走馬はほとんどがサラブレッド種。もちろん盛岡、水沢の両競馬場でレースに使われている競走馬も例外ではない。
そのルーツは競馬発祥の地・イギリス。すべてのサラブレッドの祖先をさかのぼると3頭の始祖ダーレーアラビアン、バイアリーターク、ゴドルフィンアラビアンにたどりつく。
余談だが、この3頭は名前が示すとおり、すべてアジア大陸で生まれた馬たち(バイアリータークのタークは英語読み。トルコのこと)。イギリス人がアジア産の優秀さを評価し自国の牝馬に配合したいがためにトレード、もしくは略奪してきた。
馬による競走、日本では比べ馬はローマ時代にすでに行われており、純然たる競馬の始まりは定かではない。当のイギリスにしても近代競馬が始まったのは、およそ17世紀と言われているが、いつどこで―かははっきりしない。英(エプソム)ダービーが1780年、セントレジャーが1776年だということは明確ではあるが、それ以前にもレースは行われていた。
ただ、一つだけ疑いようがない事実がある。イギリスでゼネラルスタッドブックが発行されたのが1791年。Thorough-bred(サラブレッドはthorough=徹底的に bred=生み育てる―の造語)はその語源から純血な競走馬の意味で、その重要な史料がゼネラススタッドブック=血統書だった。
しかし、驚くべきことに南部駒を管理する南部藩では、ゼネラルスタッドブックが創刊されるおよそ半世紀前、血統書がすでに作成されていた。
1754年(宝暦4年)、馬産振興施策の一つとして春・秋の2回「総馬改」を実施。馬を上中下の三段階に登録し、上中馬は他藩に売ることを禁じていた。
これが何を意味するかは一目瞭然。南部藩が自藩で生産した徹底管理し、他藩に流出を防ぐことで南部駒の優秀性を堅持するとともに、ブランド化を推し進めた。
つまり南部藩はイギリスで言うゼネラルスタッドブック=血統書を作成し、その血統書に掲載されていない馬は南部駒と認められないものとした。
江戸時代、南部藩の石高は20万石だった。しかし1635年(寛永12年)から始まった参勤交代で南部藩は駄馬行列を特別に100頭まで認可されていた。通常、5万石につき10頭の定めがあった時代、この頭数は驚くべきこと。南部藩が実質、50万石と評価されていたのはすべて南部駒の馬産によるものだった。
(第2回に続く)
テシオ情報局 編集長 松尾康司
資料・写真提供:
いわての競馬史(編集•発行 岩手県競馬組合)
30years IWATEKEIBA 岩手県競馬組合30周年記念誌(発行 岩手県競馬組合)