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岩手の競馬前史(2)

南部駒、命名の由来と始まり 前篇  2010年2月4日(木)

南部駒と命名した由来について話をする前に、日本史のおさらいをしてみましょう。
『イイクニ作ろう鎌倉幕府』。日本史を学んだとき、鎌倉幕府の設立年をイイクニ(1192年)と暗記した方も多いと思う。歴史があまり得意でなかった筆者も『ナクヨ(794年)うぐいす平安京』などの暗記法は悲しい?かな、今でもしっかり覚えている。

しかし現在、鎌倉幕府の始まりは1180年、1185年、1189年、1190年など諸説ふんぱん。特定するには至っていないが、確実なのは源頼朝氏が1192年(建久3年)、朝廷から征夷大将軍に任命されたこと。

歴史的に見れば1189年、奥州藤原氏を"滅亡"したことを受け、頼朝氏を征夷大将軍に任命したと思うが、3年もの時間差が生じたのは朝廷側に複雑な事情があったと想像できる。これは本題からずれるので言及を避けるが、余談ついでに任命から2年後、頼朝氏は辞意を表明したという話もある。

おそらく実権を握った時点(当初は違った)では、すでに征夷大将軍でなくても良かったようだが、『征夷』にこだわったのは任命した側の朝廷。『征夷』(夷=蝦夷を征つ)が、はるか昔からの最大テーマ。東北以北の脅威をずっと抱いていた。

征夷大将軍で有名なのは坂上田村麻呂。もはや定説化にさえなっているアテルイ率いる蝦夷(えみし)軍を討伏し、アテルイが愛馬「阿久利黒」を坂上田村麻呂に贈った逸話が残っている。岩手競馬の3歳重賞・阿久利黒賞はそれから命名された。いずれ触れることになるが、アテルイが軍門に下ったのは802年。この地で生まれ育った馬がいかに優秀だったかを裏づけている。

脱線する一方で申し訳ない。頼朝氏は奥州藤原氏を討伐した際の活躍と功績を称え、同年(1189年)、南部氏初代・光行公(1165年生)に陸奥国糠部郡(現在の行政区画で言うと岩手県北部から青森県東部)を与えた。

南部氏が実際に現地へ赴いたのは2年後の1191年だったが、南部氏は元々、甲斐(山梨県)の出身。この地域一帯は古くから一大馬産地で知られ、南部氏も馬の生産育成のノウハウを十分に知り尽くしていた人物。

とある文献に「南部光行氏がこの地にやってきたとき、寒冷地ゆえ畑作、田畑を作るのは不可能。よって馬産を主産業として定着しようと決断した」と記してあったが、これには異議を唱えたい。

もちろん馬産を主産業とした背景の一つには挙げられるだろうが、頼朝氏は決してマイナス思考ではなかった。逆にすでに名馬の誉れ高いこの地に南部氏を赴任させ、甲斐馬と在来馬を掛け合わせ、さらに名馬を輩出させたい意図があったから。

これが北東北の馬が優秀だったなどのあいまいな表現ではなく、『南部駒』という独自ブランド化の始まりだったといえるだろう。
(第3回へ続く)

テシオ情報局 編集長 松尾康司

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