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岩手の競馬前史(5)
南部駒のルーツをさぐる その2 2010年3月15日(金)
かつて日本には大きく分けて2つの国があった。異説、新説でもなんでもない。ただ、こう断言すると誤解が生じ、国の成り立ちまで言及しなければならないので、2つの文化圏があったと言った方がいいかもしれない。そう、縄文文化と弥生文化だ。
では縄文と弥生の違いは何か。改めて記すまでもないだろうが、稲作だった。弥生文化の象徴ともいえる稲作は中国、朝鮮半島を経て九州へ上陸したが、それはイコール、律令国家の始まりでもあった。
縄文文化の起源は氷河期が終わる1万6000年前頃からだというが、現在でもさらに古いとされる縄文時代の遺跡が次々と発掘。これまでの定説がどんどん突き崩され、いまだ縄文時代の始まりを確定できないでいるのが現状だ。
また縄文人は狩猟を主とし、必然的に大都市を形成する定住生活はなかったという説も、平成6年に発見された青森市三内丸山遺跡が一気に覆してしまった。三内丸山は紀元前3500年ごろから集団生活が始まり、約500軒の竪穴住居、祭祀を行ったであろう大型住居20棟、さらには海に近い場所には20メートル以上の高さを持つ楼閣も作られていた。
農耕は弥生時代から―も実際は違った。大規模な水田こそなかったが、ヒエなどを人工栽培し、食料を安定確保。我々の想像をはるかに超えた高度の文化を縄文人は持っていた。
縄文人のルーツは陸続きだった時代のシベリア。東南アジア、はるか南のポリネシア諸島などから海を渡ってきた人種の混血だと言われている。これも諸説ふんぱんだが、ひとまず先住民(縄文人)がシベリア以外から渡ってきたとするなら、すでに航海術が縄文時代からあったことを意味する。
付け加えるなら三内丸山で新潟県糸魚川周辺だけで採取できるヒスイ、北海道産の黒曜石などが発見されたように、盛んに交易が行われていた証拠があり、航海技術も決して低くはなかった。
ついつい我々は現在を基準に、昔にさかのぼればさかのぼるほど文化が劣っていると思いがちだが、単に大木を切り、丸太を削って船としたと安易に考えるのは危険だ。始まりはそうであっても確実安全に航海に出られる船作り技術と航海のノウハウを数々の失敗、経験を基に身につけていったに違いない。
しかし、海を渡るのが難しくなかったとは決して言えない。仮に自分でイカダとか、丸太を削って海を渡りなさいと言われたら、絶対無理。航海術を学んだとしても船出をするには相当な覚悟と勇気が必要となる。
向こうに陸が見えるから大丈夫といわれて、果たして実行できるかどうか。なぜなら海には潮の流れがあり、時化(しけ)もある。だからこの項のテーマ、馬がどこから来たかについて朝鮮半島から対馬列島を中継点に九州に上陸した、と簡単には言えない。わずか数十kmの航海だとしても、だ。
ただ、上記のとおりに馬が渡ってきたルートは、100%異論がはさまれない事実。だとしたら逆説的に何十kmの航海が可能だったならば、さらに延長された距離でも十分可能であると考えるのが当然。
どうやら中国大陸、朝鮮半島から日本へ馬が渡った可能性のあるルートは3つだったようだ。
(第6回へ続く)
テシオ情報局 編集長 松尾康司