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岩手の競馬前史(6)
南部駒のルーツをさぐる その3 2010年4月2日(金)
前回の訂正を若干しなければならない。馬が中国本土、朝鮮半島を渡って九州へ上陸したルート以外に、直接日本へ渡った可能性があるルートが3つという意味。決してオンリーワンではなかった。
1つめが「筑紫路」
塩州(中国と北朝鮮との国境付近のロシア沿岸)から朝鮮半島東海岸を南下し、対馬海峡を経て筑紫の大津浦(現在の福岡)ルート
2つめが「南海路」
南海府の吐号浦(かつての高句麗。後に渤海。現在は北朝鮮北東部)を起点として、朝鮮半島沿岸を南下し、対馬海峡を経て筑紫ルート
そして3つめが「北路」
塩州を出発した後、日本海を一気に東南へ渡海し、能登、加賀、越前、佐賀にいたるルート。
今回の本題は3つめの「北路」。これが優秀だったと言われる南部駒の祖先たちが、海を渡ってきたルートだったに違いない。この史料によると北陸、九州・佐賀までにとどまっているが、おそらく本州の北端、つまり秋田、青森までも海路を広めていった。実際のところ秋田では渤海との交易と確認できる遺物が発見されている。
その史料には続いて『当初は航海知識の欠如から海難事故が多発。しかし、晩秋から初冬にかけて大陸から流れる海風を利用し、翌年夏の東南風を利用しての航海術が確立した』と記されている。確実に残っている史実では紀元8世紀頃。
「北路」ルートはあまりにも距離がありすぎる。当時の航海技術では到底無理という人がいるかも知れない。ならば百歩譲って1つめ、2つめのルートを経て日本海近郊の航路で秋田、青森まで航海したとすれば納得いくだろうか。
前回に記したが、新潟周辺でしか採掘できないヒスイが三内丸山で多数発見されたように、すでに日本海の航海術は縄文時代にも確立されていた。
渤海国の建国は698年(?)。また日本書紀にも『727年、渤海は高仁義らを日本に派遣し日本との通好を企画する。この初めての渤海使は、日本に到着した時、当時の日本で蝦夷と呼ばれていた人々によって殺害され、生き残った高斉徳他8名が、翌年聖武天皇に拝謁した』とある。
この真偽についても定かではない。渤海使が蝦夷に殺されたとあるが、その後も同地を訪れている。常識的に"野蛮人"再訪はあり得ない。当時、日本が国内統一していた訳ではなく、日本書紀を記した人間の都合による一方的な記録と見ていいだろう。
いずれにせよ渤海国が建国後、確実に「北路」ルートが存在した。これにも反論すれば建国後でなければ交易できない訳がない。いわゆる民間外交、交易だが、国家という概念は中国本土ならまだしも、周辺国では非常にあいまい。極論すればお互いの利益が成立するならば、国家が建国する以前にも交易は当然ある。国家と交易は別ものだ。
それでも渤海国にこだわっているのは、そこで馬の飼育を国策として取り組んでいたから。しかも渤海の奥には一大帝国を作り上げたモンゴルがあるからだ。
東北北部=みちのく=陸奥にいた馬のルーツはモンゴル馬。そして渤海で飼育された馬が直接、日本海を渡ってこの地にやってきた。
朝鮮半島から九州へ上陸した馬に対し、10センチから20センチも体高があったのはルーツそのものが違った。後に記すが、四川馬とモンゴル馬がほぼ同じ時期に日本へ渡ってきた。
(第7回へ続く)
テシオ情報局 編集長 松尾康司